静学ブログ
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SGT教養講座 食べ物で健康になろう!
2月16日(土)の放課後、SGT 食べ物で健康になろう!が開催されました。講師は、Ryu Medical Cooking管理栄養士の小川侑子先生です。脳の発達をよくするための食べ物とは何か、「噛む」ことの大切さと脳の発達についてお話を聞きながら実際に調理して食べてみようという食育講座です。今回は、保護者の方にも開講しました。レシピは、鶏の胸肉を使った「よだれ鶏」と鯖缶を使った「つみれ汁」です。各グループに分かれ、講義を聞いたあと調理に移りました。鶏肉は、沸騰した鍋に入れ、火を止めて30分そのままにしておくと、Juicyなよだれ鶏に仕上がること、鯖缶から鯖を出す時によく水分を絞ってからつみれを作り、つみれを入れる時は火を止めてから入れることなど美味しく作るためのコツを教わりながら作りました。最後、もう一度「噛む」ことの大切さを先生からお聞きしながら試食しました。保護者の参加者が多く、楽しく学びながらお料理を作ることができましたとの感想もいただきました。次年度は、高校3年生の希望者も参加出来るように栄養学の見地から座学講座の機会を増やしつつ調理実習も出来る講座を開講する予定です。お楽しみに。







SGT Flower Arrangement
2月2日(土)の放課後を使い、SGT Fower Arrangementが開催されました。講師は、Flower Designerの村松文彦先生です。今年は、春のお花を使ったArrangementを作成しました。本校がこちらに移転して以来、先生には毎年、本講座を担当していただいておりますが、毎年、テーマに合わせて美しい作品をお創りいただけるので、校内も華やぎます。今年もDemonstrationで静岡市で栽培されているお花を使った作品を作っていただきました。先生の楽しいお話をお聞きしながら自分でも作品が創ることが出来る体験型の講義ということもあって、毎年生徒・保護者の参加申し込みが多く、20名の定員枠があっという間に埋ってしまうほどの人気講座ですが、リピーターが多いのも本講座の特徴です。さて、今年の作品はいかがでしょうか。お写真でお楽しみ下さい。






SGT教養講座 財務大臣になって日本の財政について考えよう!
1月29日(火)放課後、SGT教養講座 財務大臣になって日本の財政について考えよう!が行われました。講師は、財務省東海財務局静岡財務事務所職員の方たちと名古屋国税局静岡税務署職員の方です。中学1年生が2名、高校2年生が16名参加しました。最初に静岡財務事務所職員の方から財政について簡単にお話を聞いたあと財政の役割ついてVideoを見ました。続いて日本の税制について静岡税務署職員の方から日本の税制についてお話を聞きました。中学1年生は、税の種類、税の使われ方、徴税方法について初めて学びました。高校2年生は中学3年生や高校1年生の時に公民や現代社会で習った財政政策と租税制度について思い出した生徒もいたようです。次にTablet PCを使い、日本の財政について各Groupに分かれ、話し合いながら考えました。生徒たちは、歳入を社会保障関係費、公共事業関係費、文教および科学振興費、防衛関係費、地方交付税交付金など、どこにどれだけ振り分けたらよいのかパラメーターを上下させながら予算を振り分けました。作業の過程で日本は公債金の発行が多いことに気付いた生徒もいるようです。歳入の中でも大きな比重をしめているのが公債金です。その支払いのため国債費がかさみます。歳入を増やし、歳出をなるべく抑制したいところですが、その分、国債費の支払いに回す予算が少なくなり公債金が増えてしまいます。そのため各グループで防衛関係費を削減し、文教および科学振興費に充てるPlanや少子化対策のため社会保障関係費を減らすなど工夫をするPlanを考えたグループもありました。最後に各グループの代表者が財政案をまとめて発表しました。どのグループも最終的には防衛関係費を減らし、社会保障関係費や文教および科学振興費を増やしていたのが印象的でした。なお今回のSGTは、1月30日(水)の静岡新聞朝刊にも掲載されました。



SGT教養講座 Global Communication 第2回 山本義孝先生との対話
1月22日(火)放課後、袋井市歴史文化館・郷土資料館館長の山本義孝先生をお招きし、『ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎 -ベトナムと日本をつなぐ掛け橋- 』と題して第2回Global Communicationが開講されました。平成30年11月27日(火)、天皇陛下と皇后陛下が掛川を訪問され、その折りに袋井市浅羽の近藤記念館と浅羽佐喜太郎の祈念碑がある常林寺をご訪問されました。天皇皇后両陛下は、この時に浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)について両陛下にお話をされたのが山本義孝先生です。天皇皇后両陛下の掛川への行幸啓を記念し、今回はその時お話されたことも含めてファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)と浅羽佐喜太郎の関係についてお話しいただきました。
ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)は、1867年12月現在のベトナム中部にある旧首都フエ市郊外で生まれたました。のちに『ベトナム独立の父』と呼ばれるようになった人物です。彼が生まれた時、ベトナムは、フランスは着々とインドシナ半島の植民地支配を固めていました。私塾を開き教育熱心であった父のもとでファンはフランスの支配からベトナムを独立させるため、まず科挙試験に合格し官僚となる道を選びました。1895年、科挙試験に合格したファンは官僚として彼がのちに協力を求めることになる畿外侯クォンデに接近することが出来るよう人脈を作りました。そして1904年、ファンは日露戦争での日本の勝利に感化され、抗仏維新会革命党(維新会)を結成し、皇位後継者の畿外侯クォンデを盟主としたベトナム独立運動を進めます。同年12月下旬、ファンは密かにベトナムを出国し、翌年の1905年4月上旬、神戸港から日本へ上陸します。そして日本に亡命していた中国(清)の革命家、梁啓超に会うため横浜に向かいます。梁の紹介で大隈重信や犬養毅と会い、武装蜂起による抗仏独立運動のための武器の援助による軍事協力を求めましたが、これを得られず、かえってベトナムの近代化を図るための人材育成が必要であることを忠告されベトナムの科挙に合格した青年らに対して日本で学ぶことを呼びかけ派遣することを求める「東遊運動(ドンズー)運動」を展開します。これを契機にベトナム国内でもトンキン義塾が設立され、ベトナム国内でも教育による人材育成が始まりました。1906年4月、クォンデ侯が来日すると、これに続きベトナムから多くの留学生が来日し、東京の同文書院で学びます。1908年には約100名から150名程の留学生が東京にいましたが、その内60名が入学し同文書院で学びました。同文書院は、日本政府の弾圧を避けるため彼らの国籍を中国と偽りベトナムでの独立闘争に備え軍事教練まで施して彼らを鍛え保護します。
一方、フランス政府は、「東遊運動(ドンズー)運動」を警戒し、日本政府への取り締まりを要求しますが、当初は本腰を入れて取り締まりをすることはしませんでした。これに対しフランス政府は、留学生の家族を投獄し、送金を停止するなどの圧力をかけました。しかし東アジアへの侵出をもくろむ日本政府は、1907年6月、フランスとの間で日仏協約を結びます。フランス政府はファンとクォンデ侯の国外追放とベトナム人留学生の帰国を要請します。1909年1月、ファン及び留学生に国外追放が言い渡されると、ファンは留学生の帰国費用とその他事後費用の捻出に奔走しますが、経済的に困窮してしまいます。なかには行倒れになる留学生も出てきました。この行倒れになった留学生、阮泰抜(グエンタイバツ)を保護したのが、小田原の国府津で浅羽医院を営む浅羽佐喜太郎でした。彼は阮のために学費を出し同文書院にも通えるようにしました。その他にも留学生を保護し病院や地元である浅羽へ学生たちを送りかくまったりしました。こうした行為が留学生の間で噂となり佐喜太郎は『義侠の人』として知られることになります。ファンは、阮を介して佐喜太郎に手紙を書き資金協力を要請しました。するとその日のうちに佐喜太郎は1,700円を包み阮に託しました。これを資金として急場を凌いだファンは、3月の離日前に阮泰抜を伴い、国府津の浅羽邸を初めて訪ねます。佐喜太郎は、夜を徹して酒を酌み交わし、別れを惜しみました。
浅羽佐喜太郎は、慶応3(1867)年、梅田村(袋井市梅山)に生まれました。ファンも同年に生まれています。父浅羽義樹は、梅田村八幡宮(現在の梅山八幡宮)の宮司の神主で浅羽地区の格式高い家柄の主でした。明治元年(1868)年4月、遠州報国隊に参加し江戸城に入った義樹は、報国隊解散後、東京に移住し、軍務官、兵部省に勤務します。佐喜太郎は8歳まで梅山の祖母の家で過ごし、以後東京に出て父と暮らします。明治23(1890)年に東京第一高等学校を卒業した佐喜太郎は、その後帝国大学医科大学(東大医学部の前身)に入学しました。同年の入学生には、正岡子規がいました。佐喜太郎も子規の歌集を読んだと言われています。当時の帝国大学医科大学にはドイツからのお雇い外国人教授を含む24名の教授がいました。学生は、ほぼマンツーマンで指導を受けました。森林太郎(森鴎外)など日本の医学を代表する医師や研究者を輩出した同大学を明治27(1894)年に卒業すると、ドイツ留学を志しますが、幼い頃から肺が弱く健康が優れなかった佐喜太郎は、これを諦めて開業医となり、神奈川県前羽村町屋(小田原市)に「浅羽医院」を開業します。明治34(1901)年、佐喜太郎は34歳の時に初倉村(島田市)の大塚まさと結婚し翌年長女が誕生します。佐喜太郎がファンを快く迎えたのは、妻まさが僅か25歳で亡くなった12月29日の翌月、つまり1月頃ではないかと言われています。明治42(1910)年8月、東浅羽村を襲った大洪水の対応に追われ体調を崩した佐喜太郎は、9月25日に亡くなります。享年43歳でした。
1918(大正7)年、ファンは再び日本を訪れ、国府津の浅羽医院に佐喜太郎を訪ねます。しかしすでに佐喜太郎は亡く、ファンは大変悲しみにくれます。その後、ファンは佐喜太郎の故郷で墓がある東浅羽村(袋井市梅山)に李仲柏と共に向かいます。ファンが静岡県を訪れたのはこの時が初めてでした。ファンは「記念碑」の建立を思い立ち、浅羽村村長である幸太郎氏に事の次第を告げます。村長は大変感動しファンに「速く造る」ように言いました。しかしファンには120円の手持ちしかありませんでした。材料費と彫刻費が100円以上であることを事前に調べていたので100円を頭金として村長に預かってもらい、自身は一旦中国に帰国し、再度来日してから石碑を建てることを提案しました。しかし村長は、「我が村人のために祈念碑を造ろう」というファンの志を私は「達成させる責務があると思う」とファンに言い、小学校に村人を集めファンから聞いた佐喜太郎の「義侠の話」をし、ファンと李仲柏を村人に紹介して、寄付を求めました。こうして村人の寄付により石碑は10日程で完成しました。ファンは、僅か100円を出したのみでした。その後、約100年前に建立されたこの石碑については、長らく人々の歴史から忘れ去られていました。それはファンがフランスからの独立。
この石碑の由来を改めて掘り起こすきっかけを作ったのが、50年前に浅羽町役場を訪ねた内海三八郎です。彼は、仏領インドシナと呼ばれていたベトナムで商社マンとして勤務しながら日本政府のために情報収集活動を行っていました。戦後、内海はベトナムに留まり福祉活動に従事していました。この功績が認められ、彼はひょんなことからファンの遺作『自判』(『潘佩珠年表』)を手渡されます。やがて帰国した内海は、80歳を過ぎた身でありながらを独学で漢語を勉強しこの書物を読み解いていました。その中に書かれていたのがファンが東浅羽村を訪れ、浅羽佐喜太郎の祈念碑を村人と協力して造ったことでした。そこでこの事実を確認すべく当時の浅羽村役場を訪ねます。しかし役場でその由来を知る人はなく、浅羽中学校で教鞭をとっていた社会科教師柴田静夫を紹介されました。柴田の記憶を頼りに二人は、旧東浅羽村梅山の常林寺を訪れ、「浅羽佐喜太郎公祈念碑」と刻まれた石碑を発見しました。文末に「越南光復会同人謹詩」と刻まれていることを確認し、この石碑こそファン・ボイ・チャウが東浅羽村の村人の協力のもと建立した石碑であることを確認しました。この発見が、ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の物語を世に知らしめることとなったのです。
山本先生からファンと佐喜太郎の関係をお話されたあと、漢文で書かれた『自判』を学芸員の方が和訳されたことや、ファンが佐喜太郎に手紙をかく前からよく知る人物ではなかったこと、『素より知り合い』でもなく、『ましてや、かつて会ったこともない者から、「お金をかして下さい」と言われたとしたら』とても貸してもらえないだろうと思っていたファンが、駄目元で佐喜太郎に出した手紙を出したことの経緯、それに対しまだ会ったこともないファンに対し佐喜太郎は『その日の夕方に』1700円を入れて返信してきたこと、そしてその返信には『今、家の中を捜しまわってみましたが、私の手持ちはわずかにこれだけです。お待ち下さい。もし、もっと必要でしたら、後でまたお金を送ります』とだけしか書かれていなかったことをお話されました。ファンは、これを外交費、印刷費、旅費と居住費の3つに分けて使いました。校長の給料が18円だったこの時代、1700円は現在の5000万から6000万円くらいの価値があったそうです。
生徒は、なぜ佐喜太郎がファンに1700円も大金を支援金として渡したのか、疑問に思ったようです。これに対して、先生は若い頃、ドイツ留学を夢見ていた佐喜太郎が結核にかかり余命が短いことを悟り、志あるベトナムの若者のために阮君を通じてファンに送ったのではないかと答えていらっしゃいました。
現在、多くのベトナム人が県内にも居住しています。また袋井市とベトナムとの友好関係も生まれています。社会体制は異なっても人を思いやる心は忘れたくはないものです。自国中心主義が当たり前となってしまった現代において佐喜太郎の思いやりある行動は、「よきサマリア人」のような清々しい後味を私たちに残してくれました。



SGT English Winter Camp Teaching Assistant 2018
12月26日(水)から28日(金)の特別授業の放課後を使い、English Winter Camp Teaching Assistantが行われました。中学生対象のEnglish Winter Campに合わせ、英検2級以上の資格を持っている高校生が、ALTのAssistantをしながらともに英話を使ったActivityに参加しようという企画です。今回は高校2年生が1名参加しました。講師は本校のALT2名のほか、外部ALT2名とNative Speakerの2人がVolunteer Assistantとして協力してくれました。参加した中学生の英語レベルが比較的高かったことから大変充実したEnglish campになりました。特に毎回最後に行ったRole-playing Gameは、大人気で大変楽しみながら英語を学ぶことが出来ました。





